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zoom RSS 戦前から考えられていた日本への罠・・・大日本帝国憲法から日本国憲法に変えたコミンテルンの謀略

<<   作成日時 : 2017/07/18 23:00   >>

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戦後すぐに、大日本帝国憲法から日本国憲法に変更されておよそ70年、戦中や戦後すぐの頃に生まれていないほとんど多くの日本人にとって、日本国憲法が日本の憲法だという認識は当前の認識ではないかと思います。

しかし、今の憲法に変更される前、この国の憲法が大日本帝国憲法だった頃がありました。

ですから、私たちは現代の事情を見るだけではなく、なぜ大日本帝国憲法から日本国憲法に変更されたのかと疑問を抱き、憲法が変更された経緯を理解した上で、憲法について考える必要があるのではないかと、最近思っています。

それで今回は、大日本帝国憲法から日本国憲法に変更された出来事の奥には、単に当時の日本政府やGHQの意図だけがあったわけではなく、”どのような勢力のどのような意図が盛り込まれていたのか”、さらにはそうした意図は戦争前から考えられていたということを考えてみたいと思います。




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日本が幕末だった頃、ヨーロッパ諸国によるアジア侵略と植民地化が進み、19世紀には、トルコから中国大陸に至るまでアジアのほぼ全体が欧米諸國の植民地支配下にありました。

19世紀半ばになると、日本にも、西からはアメリカ、北からはロシア、西からはイギリスといった具合に西欧列強の侵略が迫っていたので、日本もやがて植民地化を辿ると考えられていました。

1853年のアメリカ海軍提督ペリーの来航以降、日本国内には、朝廷を立てて外国勢力を撃退するという尊皇攘夷運動が広がっていました。

そうした中で、大老・井伊直弼が反対派を押し切って、アメリカと日米修好通商条約を結び、開国を強行したこともあり、次第に尊皇攘夷運動は討幕運動へと展開、そして薩摩藩と長州藩が中心となって幕府を打倒。

これが、1868年の明治維新です。

徳川幕府に代わって成立した明治政府は、西欧列強による日本への侵略の危機を打開するために、大きな変革を起こしました。

明治維新断行以後、明治新政府は成文憲法である大日本帝国憲法を公布し、帝国議会を開設して、近代国家への道を歩見ました。

そして、「富国強兵・殖産興業というスローガンの下に、日本は軍事面でも経済面でも大きな発展を遂げていくことになりました。

1894年には、日本と清との間で朝鮮半島を巡って日清戦争が起きると、これで勝利した日本は、清の属国だった朝鮮半島の独立を認めることや、台湾や遼東半島(リャオトン半島)を譲り渡すことを清との下関条約で結びでした。

しかし、当時、南下政策をとっていた帝政ロシアが、中国と朝鮮の間に位置する遼東半島を譲り受けたことに干渉し、結果、日本は遼東半島を清に返したけれども、南下政策続行の動きを続ける帝政ロシアと日本はついに戦争を始めました。

1904年から1905年の日露戦争で、日本は大国ロシアに勝利することになり、日本と帝政ロシアとの間でポーツマス条約が結ばれ、日本は南満州の鉄道の利権、満州の旅順・大連を借りる権利、南樺太の割譲、北洋漁業の権利、日本による朝鮮の指導と監督する権利などを得ることができました。

一方で、この日露戦争によって衰勢が明らかになった帝政ロシアは、没落への一途を辿り、1917年のロシア革命によって崩壊しました。







〇ロシア革命によってソ連が樹立、世界にコミンテルン組織される

・1917年 ロシア革命によって帝政ロシアは崩壊し、社会主義国ソ連が樹立される。

・1918年 ロシア共産党と改称して、共産党以外の政党を禁止しました。
国内政策としては「土地に関する布告」を出し、土地の無償での没収、生産手段の国有化、コミンテルンを発足させて、各国の共産党をロシア共産党の支部。



こうして、ロシア革命が起き、ボリシェビキによってソ連が樹立するとすぐに、共産党以外の政権を禁止する法律を作り、何もかも国有化にしました。

そして、コミンテルンを発足させて、ロシア共産党の支部として各国に共産党を作り始めました。

建前は、土地や生産などを国有化にすることによって国が管理して、みんなにとって平等な社会を作るためとか言いながら、本当は小説「レミゼラブル」に登場する犯罪者集団パトロンミネットのようなボリシェビキという名の泥棒が自分たちにとって都合がいい法律や体制を作ることによって、国のすべての財産を私物化するためだったと捉えることができるかと思います。

もしソ連を樹立したボリシェビキが国泥棒のような集団なら、彼らがロシア共産党の支部として各国に共産党を作ろうと考えたのは、泥棒ボリシェビキがロシア革命によって帝政ロシアを倒してソ連に変えるという国泥棒をしたように、世界の他の国も奪おうと考えて、自分たちの泥棒の手先として使える人間を作られたのがコミンテルンだったと考えることもできるかと思います。

コミンテルンや共産党の始まりは、労働者や社会主義者の集まりだと言われているけれども、本当の姿は「レ・ミゼラブル」に登場する犯罪者集団パトロンミネットやテナルディエのような泥棒が、ちょっと頭を使って、奪い取る矛先を個人から一国に変えただけなのかなと思っています。

1928年の新聞には、「実はソウェート連邦の現物と共産主義の理想との間には、雲泥万里の距離がある。・・・無産階級の独裁政治ー実は寡頭専制そして一群の政治破戸漢が、憲法に依らず、議会に謀らず漫然たる委員制度の下に、人民の財産を強奪し、租税を濫徴し、国際条約を破棄し、内外の債権を蹂躪する」と書かれていました。

また、ソ連で組織されたコミンテルンは、元々はソ連から始まったのではなく、最初はロンドンで始まったことが
、当時の新聞には次のように示されています。

「第一インターナショナルは、今を距ること1864年、我元治元年に、ロンドンに開かれた。この会合の首脳は彼の共産主義の本尊マルクスで、労働大会というよりも、むしろ社会主義者の寄合であった。この第一インターナショナルは6年ばかり続いたが、ロシアの無政府主義者バクーニン一派とマルクス一派との大衝突が基で1872年(明治5年)のヘーダ大会を最後として消滅してしまった。
それから17年後の1889年に、広く世界の労働者を糾合して、資本家に対抗する目的で、パリーに開かれた国際大会が、第二インターナショナルと呼ばれ・・・
矢張り最初にマルクスの主張した如くに、革命に由って現状を打破し、その跡に無産階級(財産を持っていない階級)の独裁政治を興そうとする過激分子が、1920年7月21日にモスコー(モスクワ)に別派の国際大会を開催することになった。この大会には二十八箇国の代表者が出席したが、その中には、支那、日本までが加わっていた。これが即ち現在の第三インターナショナルである。
その後、間もなく開かれた第二インターナショナルの会議に、第三インターナショナルに合併する提案が討議されたが、少数で否決されたので、第二インターナショナルは、ロンドンに本部を置き今なお第三インターナショナルに対抗して存在している。第一インターナショナルに対抗して存在している。第一インターナショナルの首脳はマルクスであったが、第三インターナショナルのそれはレニンであった。レニンはマルクスの忠実な後継者であり、随って第三インターナショナルは、第一インターナショナルの再興とも見るべきものである。」







〇ソ連のコミンテルンの支部として作られた日本共産党

・1922年(大正11)7月 「コミンテルンの日本支部」として日本共産党が発足。

・1925年(大正14) 日本統治下の京城府(現・ソウル特別市)で朝鮮共産党が結成される。

・1927年(昭和2) モスクワのコミンテルンから日本共産党に指令が届く。

・1928年(昭和3)3月 共産党員検挙「3.15検挙」逮捕者は共産党員、シンパを合わせて千数百人。



このように、1922年に日本共産党はソ連のコミンテルンの支部として作られたそうで、1927年にはコミンテルンの本部であるモスクワから来た指令の中に「天皇制の廃止」の指令があったそうです。

ロシア革命によってロマノフ王朝を倒して、帝政ロシアからソ連という別の国に変えた泥棒ボリシェビキにとっては、日本の天皇や皇族に対しても同じことをすればいいと考えたようですが、これにはとても付き合いきれないと捉えた党員たちは日本共産党を脱退していったと言われています。

それでも共産党を離れなかったのは、日本に怨みのある人や、宮本顕治、徳田球一らや、朝鮮系の共産党員だったとか。

また、1928年には共産党員検挙があり、当時の神戸又新日報の記事には、 「重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽した」と示されています。

これはどういうことかというと、検挙された共産党員約1600人の中には、4月に入隊したばかりの現役兵がいたようです。







〇「天皇制の廃止」の指令に付き合いきれない左翼が作った右翼、それらが起こした1930年代の日本国内の事件

・1928年(昭和3)7月 モスクワでコミンテルン第6回大会が開かれる。

・1929年(昭和4) コミンテルンは朝鮮共産党の承認を取り消し、満洲・日本在住の朝鮮人共産主義者はそれぞれ中国共産党や日本共産党に加入し、中国や日本の社会主義革命のために活動することになる。

・1929年(昭和4)4月 共産党員検挙「4.16検挙」逮捕者700人。これで共産党組織はほぼ壊滅した。



1928年、モスクワでコミンテルン第6回大会が開かれて、「自国政府の敗北を助成すること、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること」などが決められ、中でも日本共産党は軍隊内での活動の重要性が次のように指摘されたそうです。

「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして、進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」

軍隊に進んで入隊して、軍内部から崩壊させて、自己崩壊の内乱戦を起こし、自国政府が敗北するように助成し、戦争で敗北したところで共産主義革命を起こせという内容だったようです。

さらには、レーニンは次のように宣言したようです。

「政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である」「共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。」「党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない。」

こういう精神に基づいた人が、政府や軍内部に入っていたのなら、色々な揉め事が起きるのも当然な気がします。



・1930年(昭和5)1月〜4月 浜口雄幸内閣の ロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる政治問題。海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものだとして、右翼や政友会は同内閣を攻撃。

・1931年(昭和6)3月 3月事件ー陸軍青年将校によるクーデター計画発覚事件

・1931年(昭和6) 10月事件ー昭和6年の陸軍将校を中心としたクーデター計画発覚事件

・1932年(昭和7)1月 桜田門事件ー朝鮮人による昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件

・1932年(昭和7)2月 血盟団事件

・1932年(昭和7)5月 五・一五事件



このように、1928年のコミンテルン第6回大会で、”共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。”と宣言されていたように、そうした計画の下に起きたと考えられる事件が1930年以降には立て続けに起きました。

1930年のロンドン海軍軍縮会議での調印を巡って、海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものだとして、浜口雄幸首相が暴漢に襲われるという事件も起きました。

1931年5月には、海軍の青年将校を中心とする一団が、首相官邸に向かい犬養首相を暗殺する五・一五事件が起きました。

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1932年(昭和7)2月から3月にかけて、前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長・団琢磨が相次いで暗殺される事件が起こり、この事件を起こした血盟団のメンバーは大半が20代の学生でした。

これらの事件を起こしたのは右翼だと言われており、その右翼の方針はどんなものかというと、五・一五事件の檄文(げきぶん)にはソ連のコミンテルンと同じ方針の内容が盛り込まれていることが見えてきます。

「国民諸君よ。天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!横暴極まる官憲を膺懲せよ!奸賊、特権階級を抹殺せよ!農民よ、労働者よ、全国民よ!祖国日本を守れ。而して陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ。民衆よ!此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す…」

戦前の左翼はコミンテルンからの天皇制の廃止の指令を聞くことはできないと判断したからか、それで彼らが唱え始めたのが天皇を仰ぐ右翼の社会主義でした。

代表的な思想家は北一輝や大川周明であり、彼らは天皇を仰いでいるけれども、「天皇」を「スターリン」に置き換えて、ソ連のスターリンとまったく同じものとして考えていたようです。

戦前の左翼は、天皇制を残した右翼社会主義に変更したのですから、右翼は左翼のために生まれたということになるのだろうと思います。

また、その活動には日本人だけではなく、1929年以降、朝鮮人共産主義者が加わっていたことは見逃せない点だと思います。







〇満州で暴動を起こしていた朝鮮人共産主義者・不逞鮮人・抗日パルチザン

・1929年(昭和4) コミンテルンは朝鮮共産党の承認を取り消し、満洲・日本在住の朝鮮人共産主義者はそれぞれ中国共産党や日本共産党に加入。

・1930年(昭和5)5月 間島共産党暴動ー間島で発生した中国共産党の支援を受けた朝鮮人独立運動勢力による武装蜂起が起きる。

・1931年(昭和6)7月 万宝山事件ー中国吉林省万宝山付近で、朝鮮人移住農民と中国農民とが開墾地および水路をめぐって争いが起きる。

・1931年(昭和6)9月 柳条湖事件ー日本が経営する満洲鉄道(満鉄)の線路が爆破される事件。

・1932年(昭和7)3月 満洲国建国ー元首には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。

・1932年(昭和7) 満州全土で東北軍閥、馬賊、朝鮮人民族主義者の独立武装団、朝鮮人を含む中国共産党抗日パルチザンが反満抗日の武装団体を立ち上げる。



ソ連のコミンテルンは、1921年に結成された中国共産党の満州支部に武装暴動を起こすことを指令し、1929年4月には「全満暴動委員会」を組織させ、中国共産党指導下で、朝鮮人・中国人の抗日パルチザン部隊・東北人民革命軍が編成されていきました。

1930年4月初めには、武装蜂起の計画が立てられ、このような共産主義者たちは間島(かんとう)で暴動を起こしました。

彼らは間島の主要都市や鉄道沿線で一斉に蜂起し、日本領事館などの官公庁や鉄道施設・電灯会社などを襲撃し、1年以上にわたって暴動が間島各地で繰り広げられました。

これらの暴力事件にはソ連から搬入された武器・弾薬が使われていたことも、共産党員の逮捕訊問によって判明したと言われています。

間島各地で起きた暴動の後、満州にある柳条溝において、日本が経営する満洲鉄道(満鉄)の線路が爆破される柳条湖事件が起きました。

中国側は事件の調査を国際連盟に依頼し、国際連盟の代表として5ヶ国から派遣されたリットン調査団が何ヶ月もかけて調査しました。

そのリットン報告書によると、”これは侵略戦争と簡単に言えない”、”日清戦争の頃から日本は満洲に対する特別の権利があって、その後、権利が複雑に絡み合っているため、侵略とは言えない”と報告しました。

さらには、満州事変以前から満州で頻繁に起きていた朝鮮人の共産主義者による抗日運動やテロについてリットン調査団の報告書には次のように書かれています。

”南満州の間島という地域には支那人又は日本人より又は其の両者より「不逞鮮人」と呼ばるる団体ありて、右は日本の統治より朝鮮を独立せしめんと主張する者及其の同志、共産主義者、職業的犯罪人密輸入者及売薬業者を含む職業的犯罪人、並びに支那人匪賊と結託して其の同胞より恐喝取財を行い又は金銭を強制する者を包含し居れり。”

そういえば、北朝鮮の金日成は、抗日パルチザンとして満州一帯で活動していました。







〇コミンテルンの謀略で起きた、支那大陸における日本と支那共産軍の衝突

・1935年(昭和10)7月〜8月 モスクワでコミンテルン第7回大会が開かれて、「ソ連が資本主義列国を単独で打倒すことは到底不可能である。目下の急務は、アジア正面の敵日本、そしてヨーロッパ正面の敵ドイツを撃破することだが、この二国は強力でソ連の手に負えない。従って、日独を欺くためには宥和政策を以てし、彼らを安心せしめ、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める」という戦略が宣言される。

・1935年(昭和10) 中国共産党は、満州で中国共産党指導下に編成された朝鮮人・中国人の抗日パルチザン部隊・東北人民革命軍を、共産主義には属さない武装団体も共闘し、吸収する。

・1936年(昭和11)2月 二・二六事件

・1936年(昭和11)11月 日独防共協定ー日本とドイツによる共産主義に対抗する協定。

・1936年(昭和11)12月 西安事件ー張学良が蔣介石を監禁し、国共内戦の停止を迫った事件。この事件後、第2次国共合作が成立された。



1935年(昭和10)の第7回コミンテルン大会においてコミンテルンは、「日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占める」ことを宣言しました。

「漁夫の利」は、「二者が争っている隙に、第三者が利益を横取りする」という意味であり、ソ連のコミンテルンのやり方としては自分は戦わずに二つの国を争わせて、両方が疲弊したところで、何らかの方法によって現政権から政権を奪い、両方とも共産主義の国に変えるという敗戦革命論なのだとか。

これは、ソ連を樹立したボリシェビキらが、日露戦争によって帝政ロシアが敗戦しているところを利用して、ロマノフ王朝から政権を奪って、帝政ロシアからソ連に変えたロシア革命と同じなんだなと思いました。

それで、1935年以降に日本と支那の国内で起こった事件を見てみると、1928年にコミンテルン第6回大会で「軍内部から崩壊させて、自己崩壊の内乱戦を起こし・・・」という計画や、1935年のコミンテルン大会で「日本を支那とを戦わせて・・・」という計画が、どのように実行されていったのかが見えてくるかもしれません。



第7回コミンテルン大会の翌年、1936年(昭和11)2月に二・二六事件が起こりました。

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2月26日朝、1400人の下士官兵を率いた青年将校らが首相官邸や警視庁などを襲撃し、内大臣の斉藤実、大蔵大臣の高橋是清などを殺害し、永田町一帯を占拠しました。

平時編成から戦時編成への切り替えは天皇だけができるけれども、青年将校たちはそれに背いて軍を動かし、しかも天皇の重臣たちに危害を加えました。

それに対し、天皇は「彼ら青年将校は叛乱軍だ」と言い、反乱分子を許さない断固たる決意を示し、反乱は3日間で鎮圧され、首謀者の青年将校と思想的指導者の北一輝は逮捕、処刑されました。

この頃、陸軍内は統制派と皇道派に別れていたと言われており、二・二六事件を起こしたのは皇道派の青年将校らであると言われています。

皇道派と称する彼らが唱えていた「昭和維新」は、テロ活動によって体制の転覆をし、「天皇の名による社会主義革命」を目的としていたそうです。

そうした青年将校らの主張は、血盟団事件や五・一五事件を起こした青年たちと同様に、コミンテルンからの天皇制の廃止の指令を聞くことはできないからと、天皇制を残した右翼の社会主義と似ています。

この事件後、「軍部大臣現役武官制」という現役の軍人が軍部大臣になる制度が復活し、軍が軍部大臣を指定しないことによって内閣を総辞職に追い込んで、倒閣を行うことができるようになり、軍部の政治介入が可能となりました。

二・二六事件によって問題とされた皇道派は一掃されたとは言うものの、その後の支那事変や日米開戦における陸軍の動きとコミンテルンの計画を見れば、陸軍内に残った統制派と称する人たちの中にもコミンテルンの仲間が入っていたと考えることもできるかと思います。



一方で、支那国内で起こった西安事件については、1936年12月、部下の張学良が蔣介石を監禁し、内戦の停止・国共合作・政治犯の釈放などを要求した事件が起きました。

この事件が起きる前年の第7回コミンテルン大会では、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で、日本の中国進出に対抗するための「八・一宣言」を発表し、その内容は蒋介石が率いる国民党は共産党を討つのをやめて、一致して日本と戦えという内容でした。

当時、中国国民党軍は反共の蒋介石が率いており、蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつも、共産党軍と内戦をしていました。

しかし、蒋介石が共産党軍を攻撃していたところ、「西安事件」が起きて事態が一変しました。

監禁された蔣介石は当初拒絶していましたが、張学良の要請で西安に来た共産党の周恩来らが説得、蔣介石夫人の宋美齢も上海から飛行機で駆けつけて夫を説得、蒋介石は内戦を停止することなどの8項目に合意させられました。

こうして、中国国民党軍が朝鮮人共産主義者も入っている共産党軍と国共合作した後、1937年7月に盧溝橋事件が起こりました。



・1937年(昭和12)7月 盧溝橋事件ー支那事変



7月7日、北京郊外の盧溝橋で国民政府軍に潜んでいた共産党軍の工作員が、日本軍に発砲しました。

この盧溝橋事件は、双方を戦わせるためのコミンテルンの謀略でした。

停戦に向けた交渉が行われ、11日に北平で日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれました。

しかし、中国共産党軍は25日に郎坊事件、26日には広安門事件、相次いで衝突事件を起こしました。

さらに7月29日には、軍人及び女性を含む日本人居留民が多数殺害される「通州事件」が起きました。

こうして、1929年から朝鮮人共産主義者も入っている中国共産軍による挑発行為が続いていたようです。

けれども、天皇陛下から近衛首相に講和の意向が伝えられ、日本政府が和平の道を模索し続けていたところ、1940年3月30日、日本との和平交渉の道を探っていた汪兆銘を擁立して、日本との「善隣友好、共同防共、経済提携」を掲げた汪兆銘政権が南京に樹立されました。

一方で、日本は、蒋介石率いる国共合作政の重慶政府との和平工作の努力も続けていました。







〇日米開戦に至ったきっかけと、真珠湾攻撃の背景に見えるコミンテルンの動き

・1941年(昭和16)4月〜12月8日 日米交渉

・1941年(昭和16)8月 ABCD包囲陣ー日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置、石油禁輸。

・1941年(昭和16)9月〜1942年 ゾルゲ事件ー日本国内でのソビエト連邦のスパイを逮捕。

・1941年(昭和16)11月 ハルノート

・1941年(昭和16)12月 真珠湾攻撃

・1945年(昭和20)8月 ポツダム宣言受諾

・1945年(昭和20)10月 東久邇宮内閣の近衛文麿国務相がマッカーサーと会見し、憲法改正の示唆を受ける。

・1946年(昭和21)11月 日本国憲法公布

・1947年(昭和22)5月 日本国憲法施行



1935年(昭和10)の第7回コミンテルン大会においてコミンテルンは、「日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占める」ことを宣言されたように、日本をアメリカと戦わせるために、各国に入っていたコミンテルンはどのような動きをしていたのでしょうか。

コミンテルンは、日米間に戦争を起こすことによって両者を弱体化させ、両方が疲弊して混乱している隙に共産主義の国に変えようと企んでいました。

この頃、アメリカは日本に対して段階的に経済制裁を行なっていたので、当時の近衛文麿内閣はアメリカとの戦争回避のために日米交渉をしていました。

日米交渉は当初、ハル国務長官自身は日本側の妥協案に沿った内容を用意していました。

しかし、最終的にアメリカから届いた案は、日本側の妥協案に沿ったものとはほど遠い、アメリカの強硬姿勢を示すものでした。

その強硬案は、ハル国務長官が書いたのではなく、ソ連のスパイであった財務省補佐官のハリー・ホワイトが書いたと言われています。
   
その内容は具体的には、日本政府は中国・満州およびイインドシナから全ての陸海軍と警察部隊を撤退させること、日本が支持する汪政権樹立を見捨てて国共合作をした重慶政府を支持することなど、それは日本軍が到底受け入れることができない条件でした。

こうして、ハル国務長官から日本側に渡されたアメリカの強硬案は、ハルノートと呼ばれるようになりました。

ハリー・ホワイトががなぜソ連のスパイであるかというと、エリザベス・ベントレイというソ連のスパイが逮捕された時に、彼女はハリー・ホワイトは共産党員のスパイであること話し、またウイタカー・チェンバースという元共産党員の男もホワイトはソ連のスパイだと告発しました。

スパイ疑惑の中、ホワイトは審問期間中に突然、不審な死を遂げました。

このように、ハル・ノートが対日強硬要求となった背景には、日米間に戦争を起こそうとするコミンテルンの謀略がありました。

そのハルノートについて、当時の海軍大臣であった島田繁太郎は次のように発言したようです。

「11月26日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、だれ一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。 日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で、手一杯なことを、政府も軍部も知りすぎる程知っていた。 天皇は会議のたびに、日米交渉の成り行きを心から憂慮されていた。 第二次近衛内閣も、東条内閣も、平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して任命され、政府の使命は日米交渉を調整することかかっていた。」

また当時の外務大臣であった東郷茂徳は、こう述べています。

「ハル・ノートを野村大使からの電報で受けとった時、眼もくらむばかりの失望にうたれた。日本が、かくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートを送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した。」

このように日本は、日本と中国とアメリカの政府や軍に入っていたソ連のコミンテルンからの指令で動く共産主義者の動きによって、支那大陸では朝鮮人共産主義者も入っている中国共産党との支那事変、太平洋では日米開戦と二つの泥沼にもっていかれたことになぜ気づけなかったのか考えなければいけません。





日米戦の司令長官に任命されたのは山本五十六ですが、彼はもともと日米開戦には消極的だったそうです。

しかし、連合艦隊司令長官になってからは、「開戦の劈頭(へきとう)、敵の主力艦隊を猛撃撃破して、米海軍と米国民をすっかり意気阻喪させる」と考えるようになり、真珠湾攻撃を立案・実行しました。

当時、日本海軍は出撃してくる米艦隊を日本近海で迎え撃って撃滅する計画を立てていました。

最初は日米開戦に反対だった山本五十六が、「真珠湾攻撃ができないならば、自分は連合艦隊司令長官を辞める」と強硬に主張して譲らなかったそうです。

その山本五十六は、1938年(昭和13)、自称科学者となのる詐欺師の「水から石油」が出るという実験に騙されます。

技術者でもある山本の部下達は、「水から石油ができるわけがない」と忠告しました。

山本の部下は、「水から石油」がでる実験を行う詐欺犯を馬鹿らしく見ていたけれども、山本は実験に立会い大福饅頭まで持参して詐欺師に食べさせ応援していました。

詐欺達は海軍技術者らが監視役として見守るなか、居眠りすると実験に成功し監視役が眠らないと成功しないという事で最後はお粗末な石油の(水と石油のすり替え詐欺)として捕まりました。

詐欺師に騙されるような人が軍の重要な位置に選ばれたことに、疑問が残ります。





また、日本軍には、次のような人たちも入っていたようです。

「朝鮮出身兵取扱指導刷新向上に関する件陸軍一般へ通牒 昭和二十年一月二十六日 陸軍次官 柴山兼四郎

朝鮮出身兵の取扱に関しては屡次注意せられ各部隊亦留意せられある所にして困難なる事情存すべきも最近主として其の取扱指導不適切に起因し、離隊逃亡頻発しあるのみならず、特に某部隊に於ては朝鮮学徒志願兵数十名一団となりて不穏なる策動を敢てせんとしたる事件の発生を見たるは・・・」

日韓併合の1910年、陸軍に朝鮮人が大量採用され、1937年に始まった支那事変の翌年、1938年朝鮮で朝鮮人陸軍志願兵募集が始まり、1943年に海軍特別志願兵制度が導入されました。

しかし、朝鮮人兵は日本軍から逃亡する者が多かったり、”朝鮮学徒志願兵数十名一団となりて不穏なる策動”をとる者がいました。

そした朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は、戦後、日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず、「自分達は戦勝国民だ」と主張しましたが、マッカーサーは 「朝鮮人は、戦勝国人ではなく、敗戦国人でも ない。第三国人だ」と言ったようです。

戦勝国でもなければ敗戦国でもないってどういうことだろう・・・、日本軍内で不穏な動きをとっていた朝鮮人である第三国人はスパイをしていたということなのでしょうか。





東條英機は、東京裁判での宣誓供述書の中でこう主張しています。

「他面帝国は”第三インターナショナル”(ソ連のコミンテルン)の勢力が東亜に進出し来(きた)ることに関しては深き関心を払って来ました。 蓋(けだ)し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱(かくらん)し、延(ひ)いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。・・・
支那事変に於て、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害(そがい)する重要なる原因の一たるに鑑み、共同防共を事変解決の一条件とせることも、又東亜各独立国家間に於て”防共”を以て共通の重要政策の一としたることも、之はいずれも東亜各国協同して東亜を赤化の危険より救い、且(かつ)自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。 此等(これら)障壁が世界平和のため如何(いか)に重要であったかは、第二次世界大戦終了後此の障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁に之を物語って居ります。」

これらを踏まえれば、ロシア革命が起きたので、共産主義のソ連が樹立され、ソ連が樹立されたので、共産主義の拠点ができ、ソ連を拠点として各国にコミンテルンの手先なる共産党が作られ、コミンテルンが作られたので、各国の左翼が連携してソ連の意向に沿って戦争の方にもっていったということになると思います。

そして、戦後、日本国憲法を作成したとされるGHQの民政局の中には、ソ連のコミンテルンのスパイも入っていたことから、今の憲法の基本になっているマッカーサー草案がおよそ1週間できたのは、ソ連が長年考えた罠をソ連のスパイがマッカーサー草案に盛り込んだからではないかと思いました。

今の日本国憲法は、ロマノフ王朝を倒して帝政ロシアを共産党の国にしたソ連が、日本でも同じ革命を起こすためには、帝政ロシアと同じく天皇制廃止が必要だと考えて、次第に天皇制を廃止に追い込んでいくための罠が、ロシア革命を日本でも起こそうと企んでいた(る)コミンテルンの罠が仕掛けられた憲法なのだと思いました。

その意味では、1922年にコミンテルンの支部として日本共産党ができた時点から、ソ連はどうやって日本でも民衆を立ち上がらせて革命を起こし、ソ連と同様に共産主義の国に変えようかと、虎視眈々と画策していたと思いました。

また、そうした計画を戦後も実行できるようにとi色々な罠が仕掛けられた憲法なのだと思うと、驚きを隠せません。

でも、もうソ連という国はなくなったのだから、そのなくなった国の謀略が組み込まれた憲法を大事にする私たちは一体何をしているのだろうかと、疑問に思いました。

 






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戦前から考えられていた日本への罠・・・大日本帝国憲法から日本国憲法に変えたコミンテルンの謀略 もも先生のお料理と時事問題/BIGLOBEウェブリブログ
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