日露戦争で日本を勝利に導く戦略を立てた、小説「坂の上の雲」にも登場する愛媛出身の参謀は・・?!
日露戦争は、明治になって開国間もない日本が勝利した二つ目の戦いでした。
この日露戦争で活躍した人としては、例えば秋山好古(あきやまよしふる)や秋山真之(あきやまさねゆき)がいます。
二人とも、当時は伊予国と言われていた現在の愛媛県松山市の出身で、松山藩の士族の家に生まれました。
兄・好古は松山でも秀才として知られていたようですが、家計を助けるために、学校を通うことをあきらめて、銭湯の風呂焚きの仕事をしながら独学で勉強していたと言われています。
その後、学費がかからないという理由で、教育者の養成機関である大阪の師範学校へ入学しますが、教師になって間もなく、軍人を養成する士官学校を紹介されて、軍人の道を歩むことになりました。
一方、10歳違いの弟・秋山真之は、兄の給料によって、当時の教育機関・松山中学校に入学し、そこで愛媛の俳人・正岡子規と共に学んだようです。
正岡子規が東京大学予備門大学に行くことになると、真之もそれに影響を受け、上京します。
上京後、東京帝国大学を目指していましたが、これ以上兄に生活費や学費を出してもらうわけにはいかないと判断し、兄・好古と同じように学費のかからない海軍兵学校に入学し、首席で卒業しました。
その後、軍人になった二人は、日露戦争でどんな戦略を立てて、活躍したのでしょう。
当時、ロシアの海軍は世界の中で最も大規模であると言われていましたが、ロシアの陸軍についても、ロシアのコサック騎兵たちは強い軍であると世界の国々から認められていました。
このコサック兵に比べると、日本はおよそ260年間の江戸時代においても騎馬戦はなかったので、日本の騎兵は明治になってから訓練し始めたこともあり、騎馬戦で勝てるほど強くはなかったのです。
そういった中、日本で最初に騎馬戦で勝てる戦術を考え出したのは、フランスへ留学し、西欧式の騎兵を学んでいた秋山好古(あきやまよしふる)でした。
どんな戦術かというと、騎馬戦においては日本人がコサック兵に勝つのは難しいので、そこでコサック兵が現われたら、すぐに馬から降りて、銃で馬ごと倒してしまうというものでした。
この戦術は、馬に乗って戦闘を行うという騎兵戦の一般的な戦い方を覆す発想であったそうです。
そのために、「日本騎兵の父」とも言われており、日本の騎兵育成で中心的な役割を担っていきました。
さらに秋山好古は、当時、ヨーロッパで発明されたばかりで、なおかつその効果がいまだ戦場においては明確に証明されていなかったにもかかわらず、「機関銃」を採用しました。
1905年1月、日露戦争の会戦の一つである黒溝台(こくこうだい)における会戦においては、10万ものロシア満州軍の大攻勢に対して、日本の騎兵隊たちは機関銃を使用することによって、ロシアのコサック騎兵はを次々に倒していったそうです。
機関銃を使用した秋山好古の騎兵隊は、日本は他の国からロシアのコサック兵には勝てないと思われていたようで、ロシアの陸軍・コサック兵に勝ったことで、世界の国の日本を見る目も変わっていくことになりました。
そして、最終決戦となった1905年3月の奉天会戦の戦場では、コサック兵たちは前線に現われることはなかたことから、秋山好古が考え出した機関銃による戦術は効果があったということなのでしょう。
一方、弟・秋山真之は、作戦担当参謀として、東郷平八郎のもとで連合艦隊の作戦立案で中心的な役割を果たしました。
アメリカへ留学して、西欧の海戦史を学んだり、帰国して海軍の学校を卒業して、少尉となった或る時には、体調を崩して入院していたことがあり、その時にたくさんの戦術に関する本を読んでいると、ある本に熱中したそうです。
それは、室町時代に伊予の海で兵力をもっていた村上水軍の兵法書で、その書には”海の戦では、複数の船が全力を挙げて、敵の一部を攻撃することが肝要である”と書かれていたそうです。
日露開戦と同時に、日本の連合艦隊が旅順港を目指すのですが、その旅順港にはロシアの艦隊が停泊しており、日本が大陸へ渡ることができないような位置にいたことから、まずはこのロシアの艦隊を撃たなければならなかったのです。
その戦略として、村上水軍の兵法書で学んだ複数の船を撃つ方法を応用した、丁字戦法というものを考えました。
当時の艦隊は、その船の側面に大砲を並べていたので、敵の前に横一列で並ぶことによって、より多くの大砲で敵の船を撃つことができると考えたからですが・・・旅順港からなかなかロシアの艦隊が出てくることがなく、日本の連合艦隊は旅順沖で様子を見るしかありませんでした。
そんな中、ロシアのバルチック艦隊がバルト海から回って、旅順港に向かっているという知らせが入り、このままでは旅順沖で挟み撃ちになり、やられてしまうという事態になりました。
しかし、旅順港の近くの小高い山、203高地を占領した日本軍が、そこから旅順港に向けて砲撃をしたことで、ロシアの基地が破壊され、日本が待ち始めてから6か月後、ついにロシアの艦隊は旅順沖に出てきたのでした。
その後、船が故障し、速度を落とし始めたロシアの艦隊が、日本の連合艦隊の射程距離に入ったところを砲撃し、ついに日本軍はロシアの艦隊に勝利したのでしたが、ここで丁字戦法が使われることはありませんでした。
一方で、1905年5月、ついにバルチック艦隊が、およそ7か月かけて日本海に到着しました。
その日本海での海戦では、参謀・秋山真之の丁字戦法で、バルチック艦隊を砲撃し、勝利したのでした。
軍人のような危ない状況は、ほとんどの場合、訪れないかもしれませんが、秋山真之や秋山好古のように、どんな状況の中でも作戦や戦略を冷静に考えれる人は、すごいのだなぁと改めて思います。
机の上で予め考えておいた秋山真之の作戦は、最初、実際にはその作戦を実行できにくい状況となりました。
でも、バルチック艦隊との日本海での戦いで、丁字戦法を実践できたのは、司令官・秋山真之がその部下たちに、思い描いていたのとは違う状況に遭遇した場合にも、同じ作戦の目的に従って対処できるようにと、作戦を理解させていたからだそうです。
それまでの日本海軍では、秘密保持のために、班長クラスの指揮官には作戦を教えない決まりがありました。
あらゆるすべてを教えればいいものではないでしょうけれども、一つの目的に向かってみんなの士気を高めるためには、このような秋山真之の方法論もいいのかもしれないと思います。






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